和田一夫 死去【元ヤオハン代表】最盛期は世界第2位の売り場面積!

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元ヤオハンググループ代表の和田一夫氏が90歳で老衰の為、伊豆の国市の自宅で死去。和田一夫さんの業績はどんなものだったのでしょうか?

ヤオハンは若い人は知らないだろうな?

最盛期に世界で16の国・地域に430店舗はすごい

しかし1997年に破産!負債総額は1600億!戦後最大規模の倒産

ヤオハンジャパンはジャスコ(現イオン)の支援を受け現在はマックスバリュ東海に社名変更

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和田一夫氏 業績

  • 静岡県内でチェーン展開を進める
  • ブラジルを皮切りに海外16ヵ国に450店舗を展開
  • 内外に上場企業9社を設立
  • 最盛期には年商5,000億円、従業員2万8,000人の企業グループをつくる
  • 1997年、ヤオハンジャパンは資金繰りに行き詰まり、倒産
  • 産の責任をとって、全グループの役職を辞職。当時は粉飾決算の容疑にもかけられる

なぜ年商5,000億もの大企業が倒産?

82歳の時にニッポンの社長のインタビューにて語っています。

原因はいくつもあったと思います。そのひとつは、財務のチェック機能と危機管理がおろそかになっていたこと。倒産の直接的原因は海外事業ではなく、国内事業の不振にありました。つまり、海外事業という拡大路線そのものが失敗したわけではなく、拡大によって日本国内の守りを固めきれなくなっていたんです。他にも資金調達や同族経営など、いろいろ原因はありましたよ。でも、すべては慢心したトップが悪かったのです。

ええ。財務や人事の問題も結局はトップの責任です。当時、私は「世界のヤオハン」と周りからおだてられ、慢心していました。そして、トップの驕りが役員や社員にも伝染していった。だから危機の予兆をつかんでいたのに、対処が遅れたのです。

 どの企業も成功が続いている時の方が危ない。「すべてがうまくいっている」と勘違いしてしまい、新たな問題に気づかなくなってしまうからです。絶頂期こそ、衰退に向かう危機だということを忘れてはいけません。若い経営者には、私と同じ失敗を決して繰り返して欲しくないと思います。

ニッポンの社長
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和田一夫 死去 記事内容

和田一夫氏死去 元ヤオハングループ代表、90歳 昭和から平成、国内外に総合スーパー展開


 熱海市を発祥の地とし、昭和から平成にかけて国内外に総合スーパーを展開した元国際流通グループヤオハン代表の和田一夫(わだ・かずお)氏が19日午前2時54分、老衰のため伊豆の国市の自宅で死去したことが28日、分かった。90歳。熱海市出身。

 日本大経済学部を卒業後の1951年、両親の営んでいた熱海市の青果商、八百半商店に入社した。62年、八百半デパート設立とともに社長に就き、伊豆半島からチェーン展開に乗り出した。

 高度成長期に国内の流通競争が激しくなる中、海外に活路を求めて71年にブラジル進出。以降、欧米や東南アジアで事業を広げ、最盛期には16の国・地域に約430店舗を持つ一大流通グループに育て上げた。

 しかし、96年に国内事業を担っていたグループ中核のヤオハンジャパン(91年に八百半デパートから社名変更)の資金繰り悪化が表面化し、97年9月、静岡地裁に会社更生法の適用を申請した。バブル崩壊後の売り上げ低迷や資金調達のために大量発行した転換社債の償還難などが要因となった。負債総額は1600億円で当時、戦後最大規模の流通業の企業倒産だった。

 破綻によりグループの全役職から退き、しばらくして経営コンサルタント業や講演活動を始めた。ヤオハンの成功と失敗からの教訓を経営者らに伝えた。

 近年はふるさとの伊豆で暮らしていた。昨夏には熱海市で元社員らを招き「お詫(わ)びと感謝の会」を開いた。

 ヤオハンジャパンはジャスコ(現イオン)の支援を受けて経営再建を果たし、2002年にマックスバリュ東海に社名を変更した。

 葬儀・告別式は9月21日午前10時から、伊豆の国市四日町528の2のJAハートフルメモリー韮山会館で執り行う予定。喪主は妻きみ子さん。

静岡新聞
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和田一夫 死去 ネットの反応は?

ヤオハンというと直ぐに思い出すのがドラマのおしんだなぁ。
モデルになっているという事で、放送時にかなり話題になったし。

 ヤオハンには思い入れが大分ある。
NY州に居た時に最初に出来た本格的な日本人向け食品店が
ヤオハンだった。それまでは韓国人が経営する店にランダムに
置かれていたり、キッコーマンなどはアメリカで生産した醤油を
現地スーパーで販売したりしていたけど、日本の菓子類や日用雑貨
など本格的に扱ってくれたのはヤオハンだった。
 始めて行って、サンリオの筆箱を親に買ってもらったのを
未だに覚えてる。

小売業は時代の荒波に飲まれ続けてきましたからね。
特にスーパーはGMSのブームに、西友のウォルマート買収に…
そして今ではアマゾンの台頭に代表するネットショッピングの台頭

以前アルペンの改革をテレビ特集で見ましたが、倒産や赤字転落の教訓というのは活かされるといいですね。
大手になるとなかなか、動きが鈍くなりますから

ご冥福をお祈りします

日本がダイエー、ジャスコ(イオン)などの巨大スーパーが全国区に広がっていったため、地方のスーパーであったヤオハンは海外に打って出た。その選択は正しかったが、スーパーの館内にジェットコースターを走らせたりとバブリーだった。客は来るけど売り上げが付いてこない状態となって倒産した。
もっと、真剣にスーパーマーケットビジネスを追求してほしかった。

この方のヤオハン倒産後を追ったドキュメンタリー番組を見たことがあるけど、一時は海外に雲隠れしたけど、これじゃいけないと思ってすぐ日本に戻り、自分の驕り高ぶっていたことや倒産の原因などを分析して、次世代の経営者たちの教訓にする講演会をやってて、自分の汚点を後世の若者たちの役に立てようとする姿がとてもすごいなっと思った。

静岡県民です。

小学生の時地元の駅前に開店したときは本当にセンセーショナルでした。大きなデパートにいくには隣の市に行くしかなかったですから。

本も服も文房具もご褒美はヤオハンで買ってもらいました。
今ではめずらしくない、自分でトレイに乗せてレジに持っていくスタイルのパン屋もここが人生で初めてでした。

小さくなって行った時、駅前から撤退してしまった時、寂しかったなあ。
たくさんの思い出をありがとうございました。

熱海出身者です。
まずご冥福をお祈りします。
ヤオハンは幼少期の思い出です。色んなモノを買ってもらいました。
熱海店がダイエーになってもヤオハンの面影が残っていたので、用もないのによく行きました。
リスクの高い出店や銀行との繋がりを指摘して
居る方が多く居ますが、借金無く自己資金で運営出来る事が最善案だと考えた結果だったのではないでしょうか?人口5万にも満たない熱海から世界中に300店も作った事は間違いなく功績だと思います。

昔、海外に住んでいた際によくヤオハンを利用していました。当時は海外で日本食品を購入できる場所が少なかったため、とても助かりました。この方にもいろいろ問題があったようですが、海外に進出するバイタリティーはスゴイなぁと当時思ったものです。

ヤオハン、八百半,元は八百屋と解る 懐かしい名前だ
約半世紀頃前ダイエーやヨーカ堂が隆盛を極める中, 日本ではどちらかと言えば伊豆あたりのマイナーなスーパーだったが1980年に香港島に駐在に赴任した時、ヤオハンの余りに立派な店舗を見て驚いた
当時は現地の日本人や現地人で大変賑わっていた
その後、日本の小売業としては初めて中国本土にも進出を果たし特に上海の新店舗は大規模で冷暖房完備で中国人には画期的な出来事で大変な人気だった

当時は未だ中国の規制が厳しい中,どんどん中国でビジネスを展開して当時の中国の時の権力者,登小平との蜜月を和田さんはマスコミにアピールしていたが、後年 日本での倒産が引金となり経営を中国資本に移さざるを得なくなってしまった

いずれにしても日本でマイナーを脱し切れず内需中心のスーパーとしては早過ぎるくらいに海外に活路を求めた 一世を風靡した異色の経営者だった

慎んでお悔やみ申し上げます。
途中で経営破綻したとはいえダイエーと共に流通業を盛り上げて頂いた金字塔は残る。
かなり昔で有るがマレーシアに出向して居た時分、アンパンや梅干しが何処にも売って居なかった。
当たり前と言えば当たり前だが、ヤオハンに行けばそれが置いてあり現地の人にもアンパンは人気商品だった。
日本の流通業を海外にまで広げ開拓されて日本製品を世界中に知らしめた功績は大きなものが有ると思う。

ヤオハンができた時、自分は熱海で生まれた。母親におぶわれて二階のレストランで、お子様ランチやラーメンを食べた記憶がある。伊豆地域で水害が出た時食材を無料放出したのは伝説になっている。なんとも悲しい。今はイオンの支援でマックスバリュー東海になり24時間営業をしているが、それ以前に中国資本に落ちた時期があり八百伴と名乗っていた時があった。EM農法に夢中になって中国の農業を良くするんだ、と中国資本に乗っ取られてもヤオハンを名乗る中国スーパーを指差してあれはもう自分の店ではないが、とテレビで見た時は悲しかった。未だスーパー業界は食うか食われるかの戦国時代。激動の時代を生き抜いた和田氏のご冥福をお祈り致します。

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